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浦和地方裁判所 昭和55年(ワ)49号 判決 1985年7月19日

原告

鈴木宏俊

原告

鈴木宏子

原告

鈴木宏昌

右法定代理人親権者父

鈴木宏俊

右原告三名訴訟代理人

佐藤善博

難波幸一

藤本えつ子

被告

埼玉県

右代表者知事

畑和

右訴訟代理人

鍛治勉

被告

富士見市

右代表者市長

山田三郎

右訴訟代理人

岸巖

笠井浩二

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは連帯して、原告鈴木宏俊に対し金一四五五万〇五九九円、原告鈴木宏子、同鈴木宏昌に対し各金一四〇五万〇五九九円及び右各金員のうち、原告鈴木宏俊について金一三二五万〇五九九円及び原告鈴木宏子、同鈴木宏昌について各金一二七五万〇五九九円に対する昭和五一年八月九日から各支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する被告らの答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者の地位

(一) 原告鈴木宏俊(以下「原告宏俊」という。)は、訴外亡鈴木節子(昭和一二年二月一一日生、以下「節子」という。)の夫であり、原告鈴木宏子(以下「原告宏子」という。)は節子の二女、原告鈴木宏昌(以下「原告宏昌」という。)は節子の長女である。

(二) 被告埼玉県(以下「被告県」という。)はその執行機関として埼玉県教育委員会を、被告富士見市(以下「被告市」という。)はその執行機関として富士見市教育委員会を、それぞれ設置している。

2  事故の発生

節子は、昭和五一年八月八日、埼玉県富士見市羽沢二丁目一番一号所在の同市立鶴瀬小学校プール(以下「本件プール」という。)内において、埼玉県教育委員会及び富士見市教育委員会(以下「両教育委員会」という。)が、左記の要領により共同主催した「泳げない人の水泳教室」(以下「本件水泳教室」という。)に参加して水泳練習中、午前九時四五分ころ、水中に沈んでいるところを発見され、指導監視員らによつて引き上げられ人工呼吸を受けたが、蘇生することなく同日死亡した。その死亡の原因は水の吸飲により呼吸気道が閉塞されて起こる死亡、すなわち溺水による窒息死(以下「溺死」という。)であり、そうでないとしても、急性心不全であつた(以下これを「本件事故」という。)。

(一) 日時 昭和五一年七月二四日(土曜日)、同月二五日(日曜日)、同月三一日(土曜日)、同年八月一日(日曜日)、同月七日(土曜日)、同月八日(日曜日)

土曜日は午後二時から午後四時まで、日曜日は午前九時から午前一一時まで

(二) 場所 富士見市羽沢二丁目一番一号所在同市立鶴瀬小学校プール

(三) 担当職員、講師及び体育指導員(以下、この講師及び体育指導員を「指導監視員」という。)

(1) 富士見市教育委員会保健体育課職員

木内日出男、橋本二郎、若林博

(2) 講師

町田初子、馬場雄

(3) 体育指導員

岸本龍一、谷沢五雄、土屋啓、伊藤国策

(四) 対象 富士見市内在住在勤の一八歳以上の泳げない男女

(五) 定員 三〇名(実際の受講者は三四名)

3  両教育委員会及び担当職員、指導監視員の過失

両教育委員会及び担当職員、指導監視員には、本件水泳教室の計画及び実施にあたり、次のような注意義務があるのにこれを怠つた過失があり、このために本件事故が発生した。

(一) 担当職員及び指導監視員の注意義務

(1) 水泳は常に溺死の危険を伴ない、特に初心者は水泳中の健康状態の僅かの変化でも水泳能力に大きく影響する虞があるから、本件水泳教室の実施に際しては、実施前に、受講者に対し、医師による身体検査、血圧測定、心電図検査等の健康診断を行ない、または健康診断書を提出させる(以下「健康診断等」という。)べきであり、これによつて、水泳練習適格者であるか否かを厳密に調査し、不適格者を除外する措置をとらなければならない。

また、水泳練習実施中は、常に受講者の身体状況及び天候、気温、水温等の環境に注意して、その身体状況及び環境に適した練習をさせ、水泳不適格となつた者に対しては直ちに練習を中止させる等の措置をとらなければならない。

(2) 本件水泳教室は水泳未経験者を対象とするのであるから、この種の講習に適切な知識、経験、能力を有する指導監視員を適切な人数配置し、救急薬品、人工呼吸器、酸素ボンベ等の応急設備を整え、監視台を設置する等して、受講者の安全を確保するために十分な人的構成、物的設備を整えなければならない。

(3) 水泳未経験者は、水泳能力が皆無または極度に低く、溺水の危険性が非常に高いのであるから、水泳練習の実施にあたつては、受講生を自由に泳がせることなく、常にその動静を監視し、溺水事故発生の危険があるときは直ちに発見救助できる態勢をとらなければならない。

(二) 両教育委員会の注意義務

両教育委員会の各教育委員及び各教育長は、担当職員及び指導監視員に対し、(一)の注意義務の遵守を厳重に指示しなければならない。

4  被告らの責任

(一) 両教育委員会の各教育委員、各教育長並びに前記担当職員及び指導監視員はいずれも被告らの公務員であり、これら公権力の行使に当る公務員がその職務を行なうについて前記の過失があり、これによつて違法に節子を死亡に至らしめたのであるから、被告らはいずれも国家賠償法一条一項により本件事故により生じた損害を賠償する責任を負う。

(二) 右の各公務員は、いずれもその過失により民法七〇九条に基づく不法行為責任を負い、本件事故は被告らの各事業の執行につき生じたものであるから、被告らは、それぞれその使用者として民法七一五条に基づく責任を負う。

(三) 右の各公務員の行為は、共同してなされた不法行為であるから、被告らは右(一)、(二)の責任につき連帯して損害賠償責任を負う。

5  損害

本件事故に基づく節子の死亡により、同女及び原告らは、次のとおり損害を被つた。

(一) 節子の損害 合計金二九二五万一七九七円

(1) 逸失利益 金二一二五万一七九七円

節子は、本件事故当時主婦として家事労働に従事しており、本件事故により死亡しなければ、少なくとも三九歳から六七歳までの二八年間、主婦として家事労働に従事することができた。

昭和五二年度の賃金センサス第一巻第一表の産業計企業規模計の女子労働者の学歴計の年間給与額は金一五二万二九〇〇円であり、これに昭和五三年度から昭和五五年度までの三年間、ベースアップ分として毎年五パーセントずつを加算した昭和五五年度の年間給与額金一七六万二九四七円に、稼動年数を二八年とした新ホフマン係数一七・二二七を乗じ、支出を免れた生活費を三〇パーセントとしてこれを控除すると、節子の逸失利益は金二一二五万一七九七円となる。

(2) 慰謝料 金八〇〇万円

泳げるようになることを楽しみにして通つた水泳教室で生命を奪われた節子の苦痛、無念を考えると、本件慰謝料として金八〇〇万円が相当である。

(二) 相続

原告宏俊は節子の夫であり、原告宏子及び同宏昌はいずれも節子の子であるから、原告らはそれぞれ、同女の右損害賠償請求権合計金二九二五万一七九七円の各三分の一、各金九七五万〇五九九円を相続した。

(三) 原告らの損害

(1) 葬祭費 金五〇万円

原告宏俊は、節子の葬祭費として金五〇万円を支出した。

(2) 慰謝料 合計金九〇〇万円

最愛の妻を失い、幼くして母を失つた原告らの悲嘆、苦痛を考えると、原告らの慰謝料として原告ら各自につき金三〇〇万円が相当である。

(3) 弁護士費用 合計金三九〇万円

被告らは、本件事故の責任を認めず、原告らの損害賠償請求に応じないため、原告らは本件訴訟の提起及び追行を弁護士に委任することを余儀なくされ、原告らは原告ら訴訟代理人三名に対し、各自金一三〇万円を支払う旨約した。したがつて、右各金員は本件事故と相当因果関係のある損害である。

6  結論

よつて、原告らは、被告らに対し、本件事故による損害賠償金として、原告宏俊に対し金一四五五万〇五九九円、原告宏子、同宏昌に対し各金一四〇五万〇五九九円及び右各金員から弁護士費用を控除した、原告宏俊について金一三二五万〇五九九円、原告宏子、同宏昌について各金一二七五万〇五九九円に対する本件事故発生の日の翌日である昭和五一年八月九日から各支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を連帯して支払うことを求める。

二  請求原因に対する被告らの認否及び被告らの主張

1  請求原因1の事実について

(一)、(二)のうち、節子の生年月日は知らず、その余の事実は認める。

2  同2の事実について

節子の死因が溺死であることは否認し、その余の事実は認める。

なお、6で後述する如く、節子は、本件事故当日の午前九時四五分ころ、水泳の練習中に急性心不全を起こして即死したものであり、右死因と本件水泳教室における水泳練習との間には何ら因果関係がない。

3  同3(一)及び(二)の事実は全部否認する。

(一) 両教育委員会の健康診断等の義務について

(1) 本件水泳教室は、一八歳以上の一般市民を対象とし、希望者が任意に参加するものであるから、主催者が健康診断等までも実施する義務はない。

市町村等地方公共団体主催の本件のような水泳教室、民間で行なわれている有料の水泳教室及び地方公共団体が開設している市民プール等においても、参加者または入場者に対して医師による健康診断等は行なわれていないのが一般である。

(2) 両教育委員会は、本件水泳教室への参加者を募集するに際し、健康状態には十分留意し、少しでも身体の具合の悪いときは水の中に入らないように注意しており、水泳練習実施に当たつても、講師から受講者全員に対し水の危険性を十分に説明し、水泳による事故を未然に防止するため次のような注意を与えた。

(イ) 健康状態の悪い人は絶対にプールに入らず見学すること。

(ロ) 水泳中に頭が痛くなつたり、その他健康状態に異常を感じたときは、すぐにプールから上がり、水泳をやめること。

(ハ) 疲れたらすぐにプールから上がつて休息すること。

(ニ) すぐにプールに飛び込まず、必ず準備体操を行い、全身にシャワーを浴びて身体を濡らしてからプールに入ること。

(ホ) プールに入るときには、足の方からゆつくり入れて、全身を水に入れること。

(ヘ) 講師及び指導員らの注意、指示等を守ること。

(3) 本件事故当日も右のような注意をしたところ、受講者二〇名のうち二名が身体の不調を申し出たため、右の二名を除いた一八名で練習を始めたのであるが、節子からは何の申し出もなく、同女も練習に参加した。

(4) 本件事故当日の天気、気温等の状況は、練習開始時の午前九時一五分ころは晴れており、午前一〇時ころには曇つてきたが、そのころの気温は摂氏二六・二度、湿度は七三パーセント、水温は摂氏二七度で水泳には適した条件であつた。

(二) 人的物的設備について

本件水泳教室には、講師として、日本水泳連盟公認指導員であり日本赤十字社水上安全法救助員である町田初子、日本水泳連盟公認指導員である馬場雄、その他の指導者として、富士見市教育委員会の体育指導委員四名が出席していた。

(三) 指導監視態勢について

(1) 本件事故当日、受講者一八名を、上級(平泳ぎや背泳ぎができる者)、中級(クロールやある程度平泳ぎができる者)、初級(まだ、上級、中級のように泳ぎができない者)の三グループに分けて練習していたが、節子の属していた七名から成る初級グループには、体育指導委員である谷沢五雄と土屋啓が配置され、その他に町田初子の子である町田章子が加わつて、右七名の指導、監視に当たつていた。

(2) 本件プールは、縦二五メートル、横一三メートル、水深は左右から中央部に進むにしたがつて徐々に深くなり、鶴瀬小学校の校舎に向かつて右端部分は〇・九メートル、中央部分は一・二メートル、左端部分は一・〇メートルの小学生用プールであり、本件事故当日は、このプールを右校舎に向かつて右、左、中の三区画に区分し、初級グループは右側区画(深さ〇・九メートルないし一・〇メートル程度)で練習していた。したがつて、プールそのものは水泳未経験者であつても特に危険性のあるものではなく、前記のとおり初級グループには三人の指導者がついて指導と監視に当たつていたものであり、受講者七名の動静は十分に把握されていた。

(3) 節子は、本件事故当日の午前九時四五分ころ水中に沈んでいるところを発見されたものであるが、直ちにプールサイドに引き上げられ、町田初子らが人工呼吸、マッサージ等を施し、同時に救急車を呼び、万全の措置を尽くしたが、救急車が到着した午前九時五二分より以前の午前九時四五分ころには、既に節子は急性心不全により死亡していたものである。

(四) 両教育委員会の注意義務について

教育委員会は合議体であり、教育委員会を構成する各委員には、本件水泳教室の担当職員及び指導監視員に対し原告ら主張の注意事項の遵守を指示する権限はない。また、両教育委員会事務局の各教育長が一つ一つ右遵守を指示する必要はなく、教育委員会が行政官庁として本件水泳教室の開催に当たつて危険を生ずる虞のないような方法、指導を講ずれば足りる。

4  同4の事実について

(一) (一)のうち、両教育委員会の各教育委員、各教育長並びに担当職員及び指導監視員中、富士見市教育委員会保健体育課職員三名及び体育指導委員四名が被告富士見市の公務員であることを認め、その余は否認する。但し、右七名の公務員はいずれも公権力の行使に当る公務員ではない。

(二) (二)及び(三)は争う。

5  同5の事実は知らない。

6(一)  節子は、若年性高血圧症であり、昭和五〇年九月一九日から同年一二月二五日まで前後七回に亘つて大井町所在の島田内科医院において診察治療を受けていたが、その後治療を中断していた。

(二)  節子は、本件事故前日である昭和五一年八月七日にも、身体の具合が悪かつたため本件水泳教室を休んでいた。

(三)  本件事故当日である同月八日、節子は、自宅において原告らに対し身体の具合が悪いので水泳教室に行きたくない旨話し、また、水泳教室会場においても他の受講生に対し「前日は身体の具合が悪かつたので休んでいたが、今日は最後の日だから出席した。」と話していた。

(四)  節子は、自己の健康状態を適確に把握し、その状態に応じていかに行動すべきかについて自主的に判断する能力を十分に有する成年の女子であり、本件事故当日は前記のとおり身体の不調を自覚していたのであるから、前記指導員からの注意を受けた際、他の二名とともにプールに入ることをやめるべきであった。

それにも拘らず、節子は、健康状態の悪いことを隠して水泳練習に参加したため、指導員らも節子の健康状態を知ることができないまま、急性心不全により死亡するに至つたものである。

三  二6の被告らの主張に対する原告らの反論

1  (一)の事実のうち、節子が高血圧のため昭和五〇年九月一九日から同年一二月二五日まで前後七回にわたつて島田内科医院において診察治療を受けたことを認め、その余は否認する。

節子は、若年性高血圧症ではなく、島田内科医院で単に血圧が高いと診断されただけであり、右診断以後本件事故当日まで塩分を避ける等の食餌療法を続けており、昭和五〇年一二月二五日以後同医院に通院しなかつたのは、血圧が下がつたためであつて治療を中断したものではない。

2  (二)の事実のうち、節子が本件事故前日に本件水泳教室を休んだことを認め、その余は否認する。

節子が休んだのは、原告宏子の洋服等の買い物に出かけたためである。

3  (三)のうち、節子が原告らに対し身体の具合が悪い旨話していたことは否認し、その余は知らない。

4  本件事故当日ころ、節子は健康であり、身体に欠陥はなかつたのである。

第三  証拠<省略>

理由

一当事者の地位

<証拠>によれば、節子の生年月日は昭和一二年二月一一日であり、本件事故当時三九歳であつたことが認められ、その余の請求原因1の(一)及び(二)の事実は当事者間に争いがない。

二事故発生の経緯

1  節子の死因が溺死であること以外の請求原因2の事実は、当事者間に争いがない。

2  次に節子の死因について検討する。

(一)  本件事故発生前の節子の健康状態

(1) 節子が高血圧のため昭和五〇年九月一九日から同年一二月二五日まで前後七回にわたつて島田内科医院において診察治療を受けたことは当事者間に争いがなく、さらに、<証拠>によれば、次の事実が認められる。

(イ) 島田内科医院で治療を受けた当時、節子の血圧は、昭和五〇年九月二〇日で最大一八六mmHg、最小一〇〇mmHgと高く、ほぼ同様の状態が同年一二月に至つても続き、同月四日で最大一八六mmHg最小九八mmHgであつたが、同月二五日には最大一六六mmHg最小八六mmHgと低下し、同日以降、節子は同医院に通院しなくなつた。

(ロ) 本件水泳教室の開催日合計六日間のうち、節子が出席したのは、昭和五一年七月二四日、同月二五日、八月八日の三日間だけであり、七月三一日、八月一日、八月七日の三日間は欠席している。

(ハ) 本件水泳教室において、節子と顔見知りになつた訴外渡辺タケが本件事故当日、節子に対し欠席した理由を尋ねたところ、節子は、一日は娘と外出し、他の二日は調子が悪かつたためであり、今日は最終日だから来た旨答えた。

(ニ) また、次の(二)6で認定する如く、本件事故直前に節子が本件プールの一三メートルの往路を泳いだ後、渡辺タケが節子に対して頭が痛いと言つたところ節子も調子が悪いと答えた。

(2) 右の事実によれば、節子の血圧は、事故発生の前年である昭和五〇年九月ころから一二月ころまで通常人のそれと比べ非常に高く、治療を要する状態であつたこと、本件水泳教室に参加した当時、節子の体調はすぐれず右水泳教室を数日欠席していること、本件事故当日も節子の体調は良好とはいえない状態にあつたことが認められる。

(二)  本件事故発生の経緯

<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

(1) 本件水泳教室の最終日である本件事故発生当日、両教育委員会は、節子を含む受講生二〇名に対し、町田初子、馬場雄を講師とし、被告市の体育指導委員四名を指導者、被告市の教育委員会保健体育課職員を監視員として、水泳練習の指導をしたが、練習開始に先立ち、講師らが、事故を未然に防止するための諸注意を与え、健康状態の悪い人はプールに入らないように指示したところ、二名が身体の不調を訴えて練習を見学することになり、結局、当日の練習は一八名の受講者で行なわれることになつた。

(2) 講師らは、本件水泳教室において、受講者をその水泳能力に応じて組分けし、各組毎に指導する方針を採つていたが、本件事故当日も、一八名の受講者を、その水泳能力に応じて、上級、中級、初級の三グループに分け、節子は六名くらいから成る初級グループに所属することになつた。

(3) 本件事故当日の本件プール付近の講習時の天気は晴れ、湿度は約七三パーセント、水温は摂氏二七度、気温は午前九時で摂氏二五・五度、午前一〇時で摂氏二六・五度、風速は毎秒零メートルであつた。

(4) 本件プールは、縦二五メートル、横一三メートル、水深は左右両端から中央部に進むにしたがつて徐々に深くなり、満水時において左右両端部分で一・〇メートル弱、中央部分で一・二メートルの規模の小学生用プールであつた。

(5) 本件事故当日、講師らは右プールを縦に三等分して鶴瀬小学校校舎に向かつて右、中、左の三区画に分け、初級グループは縦八メートル余、横一三メートル、水深一メートル前後の右側区画を割り当てられて練習をすることになつた。

そして、同グループには、指導及び監視のため、体育指導員谷沢五雄、同土屋啓及び町田初子の子である町田章子の三名が配置された。

また、町田初子は本件プール内において中級及び初級グループ間を移動しながら指導にあたり、プールサイドでは、保健体育課職員若林博が、全受講生のため監視にあたつていた。

(6) 午前九時一五分ころ、当日の練習が開始され、まず受講者全員で準備体操を一〇分間ほど行なつてシャワーを浴び、次いで三グループに分かれて、全員がプールサイドに腰を掛け足を水中に入れてキックする腰かけキック及び身体をプールの中に入れ手をプールサイドにかけてバタ足をする壁キックを一〇分間ほど行なつた後、初級グループは、前記右側区画部分において、一名ずつプールを横断して泳いでみるよう指示された。

初級グループのうち、節子ら三、四名の者は、当初一人で泳ぐことをためらつていたが、町田章子から思い切つて泳いでみるように促されて右側区画を横断して往復する練習を始めることにした。

節子は、往路を泳ぎ切つて校舎と反対側のプールサイドにたどり着き、折り返し復路を泳ぎ出したが、泳ぎ終わる直前の午前九時四五分ころ、校舎側プールサイドにあと約二メートルに近づいた付近で、水中に沈んだ。

水沈するに際し、節子が、異常に激しい水しぶきをあげていたり、助けを求めたりした形跡はなく、沈むところを目撃した人はいなかつた。

(7) 節子と同じく初級グループに所属してプールを横断する練習をしていた訴外大塚よしのは、節子と同じころ同人にやや先行して校舎側から泳ぎ出し、反対側に泳ぎ着いて指導員と息つぎについての話をした後、再び校舎側に向かつて泳ぎ出したところ、前記場所付近で、同人の手が水中に浮かんでいた節子の足に触れて節子を発見し、思わず、「誰か潜つている。」と叫んだ。

(8) なお、節子と同じく初級グループに属し、節子と同時に横一列の形で泳ぎ始めた渡辺タケは、前記の如く、対岸に着いた節子と体調が悪い旨の話をした後、泳ぐことをやめて見学することにしたが、同人が右の大塚よしのの叫び声を聞いたのは、プールサイドを歩いて校舎側プールサイドに引き返し、同所に座つて見学を始めた直後のことであり、その時、同人の身体はまだ濡れたままの状態であつた。

(9) 大塚よしのの叫び声で周囲の人々も異常に気づき、まず、初級グループの指導をしていた町田章子が節子のところへ泳いで行き、次いで中級グループの指導をしていた土屋啓が駆けつけ、町田章子が節子の両腕を抱え、土屋啓が足首を持ち、その他の人々も協力して節子を校舎側プールサイドに引き上げ、後記の医師が到着するまでの間、町田章子、町田初子が交互に人工呼吸を行ない、体育指導員が心臓マッサージを施す一方、プールサイドで監視にあたつていた若林博が電話で救急車の出動を要請した。

(10) 救急車は、午前九時五八分ころ現場に到着したが、既に節子の意識、呼吸及び脈搏はなく、瞳孔は散大していたため、救急隊員は既に死亡しているものと判断して節子を病院等医療施設に搬送することはせず、午前一〇時四分ころ、医師の派遣を要請した。

(11) 連絡を受けた清水栄一医師は、午前一〇時二五分ころ現場に到着して節子の診察にあたつた。同医師は、節子の心音、脈搏、自発呼吸のいずれもないことから心臓が停止していることを確認し、人工呼吸を行ないながら聴診器による診断をしたがラッセル音は聞こえず、節子をうつ伏せの状態にして同女が吸飲したものを吐き出させようとしたところ、朝食の残滓と思われる胃の内容物が五〇ないし一〇〇ccほど出ただけで、水は全く出なかつた。また、節子には、窒息により呼吸困難となり脳圧が亢進した場合に生ずることのある眼球の溢血斑も認められず、同女の背部には暗赤色の死斑が出ていた。

清水栄一医師は、右診察の結果及び身体の硬直状態等から、節子は死後三〇分ないし四〇分を経過しており、一時間未満の間に急性心不全を起こし即死状態で死亡したものと推定した。

三節子の死因

以上の事実を総合判断し、とりわけ、節子については、発見された当時水底に沈んでいたのではなく水中に浮かんだ状態であつたこと、溺死の特徴とされる水中でいて暴れるという現象がなく、周囲にかなりの数の人がいたのに誰も節子が水中に沈んだことに気付かなかつたこと、口から食物の残滓は吐き出されたが水は全く出なかつたこと、溺死すなわち窒息死の特徴の一つである眼球の溢血斑が認められなかつたことを考慮すると、節子が溺死したものと認めることはできない。

そして、これらの事実に加え、節子は日頃から血圧が極めて高く、事故当時体調が不良であつたことを併せ考慮すると、同女は本件水泳練習によりさらに血圧が亢進して循環障害を起こし、遂には急性心不全を惹き起こして死亡したものと推認することができる(ただし、節子の死因が急性心不全であることは、原告が予備的に主張し、被告らが認めるところである。)。

四両教育委員会及び担当職員、指導監視員の過失の有無

1  健康診断等の義務

(一)  そこで次に、本件事故を未然に防止するため、両教育委員会ないし担当職員、指導監視員が、本件水泳教室の受講者に対し、事前に医師による健康診断を行ない、または健康診断書の提出を求めるべき義務を負うか否かについて検討する。

(1) 水泳が各種スポーツの中で最も運動量が大きいものの一つで、身体の呼吸器系、循環器系の器官に大きな負担を与え、また、常に溺死の危険を伴うものであることに鑑みれば、水泳教室の実施にあたつては、事前に、健康診断等により、参加者の健康状態が水泳練習に適しているか否かについて、可及的多くの項目にわたつて厳密に調査しておくことが望ましいことは言うまでもない。

ちなみに、<証拠>によれば、本件と同様の初心者を対象とした水泳教室の実施に際し、東京都教育委員会主催の東京体育館における水泳教室や埼玉県上尾市教育委員会主催の水泳教室では参加者に対し医師による健康診断を実施し、または実施したことがあり、また、東京都中央区や練馬区の教育委員会主催の水泳教室においては健康診断書の提出を求めていることが認められ、これらは、右に述べた観点から、参加者の安全について周到に配慮した望ましい事例と言える。

(2) しかしながら、本件水泳教室は、前記認定のとおり富士見市内在住在勤の一八歳以上の社会人を対象とし、社会教育活動の一環として行なわれているものである。社会人を対象とする健康診断は、学校における児童、生徒に対する集団検診の場合とは異なり、事前に対象者全員の参加を求めて健康診断等の必要性の周知徹底をはかつたり、健康診断を実施したりすることは一般に困難な場合が多く、また、受講者の年齢等に鑑みれば、これらの人々は、各自が自己の健康状態と水泳のもつ危険性について、認識し判断する能力を有しているものと言える。さらに、健康診断等は水泳不適格者を発見し事故の発生を未然に防止するための唯一の方法ではなく、受講者に対し、健康状態に関する十分な注意を与え、体調の悪い人は泳がないように注意することによつても危険の発生を相当程度防止することができるものであり、現に本件水泳教室においても、前記のとおり、講師らが練習開始前に毎回健康状態及び水泳練習についての注意を与え、本件事故当日も、節子を含む受講者全員に対し、健康状態の悪い人はプールに入らないように、また、プールに入っていて気分が悪くなつた場合には直ちにプールから上がるように注意していたのである。そして、受講者は、本件水泳教室において健康診断等が行なわれないことを案内書等により知り得たのであり、自己の自由意思により参加したものであるから、健康状態に不安のある人は自主的に医師の診断を受けるべきであつたのである。加えて、民間で行なわれている有料の水泳教室及び地方公共団体が開設し使用料を徴収している公営プールにおいても、参加者または入場者に対し、健康診断等が行なわれていないことは公知の事実である。

(二) 以上に述べたところを総合すると、本件のような地方公共団体による無料の、しかも一八歳以上の社会人を対象とする自由参加の水泳教室において、主催者ないし担当職員、指導監視員に健康診断等を実施する義務があるということはできない。

なお、<証拠>によれば、東京都下の大半の区、市及び埼玉県下の上尾市以外の全ての市では、初心者を対象とする水泳教室の実施に際し、健康診断等を行なつていないことが認められるが、これらは右に述べた観点から判断して、本件の如き水泳教室の主催者ないし担当職員、指導監視員に健康診断等の実施を義務づけることが相当でないことを示しているものというべきである。

2  水泳条件についての配慮義務

本件事故当時の気象条件は、前記認定のとおりで水泳練習に不適当なものであつたとは認められず、<証拠>によれば、主催者側において特に水温に留意して計測し、他の条件についても講師らが適確に判断していたものと認められ、環境に対する注意が欠けていたとは認められない。また、本件水泳教室実施中の受講者の身体の外観から窺われる健康状態についても、<証拠>によれば、初級グループ六名ほどの状態は同グループの前記指導者三名によつて把握されており、相当な注意がなされていたことが認められる。

3 人員の配置、物的設備

(一) 泳げない人を対象とする水泳教室を実施することにあたつては、この種の教室にふさわしい知識、経験、能力を有する者を講師、指導者とし、また、適切な人数の監視員を配置することが参加者の安全を確保するために肝要であるが、<証拠>によれば、本件水泳教室の講師である町田初子は、日本赤十字社水上安全救助員の資格を有し、浦和市主催の水泳教室及び与野市所在のスイミングスクール等で一〇年以上の水泳指導の経験があること、同じく講師である馬場雄は日本水泳連盟公認指導員の資格を有すること、体育指導員四名はいずれも水泳能力を有すること、町田章子も、本件事故当時、高等学校で水泳部に所属し、与野市所在のスイミングスクールで三、四年の間指導した経験があり、水難救助面で日本水泳連盟公認の資格を有することが認められ、これら講師及び指導者らの資格及び能力、さらには、前記のとおり、プールサイドには保健体育課職員若林博が控えて受講者全員を監視していたことを併せ考えると、本件水泳教室においては、事故を防止するうえで十分な人員が配置されていたものというべきである。

(二) また物的設備についても、監視台は、前記認定の本件プールの規模、初級グループが練習していた区画の範囲、受講者の年齢、指導者、監視員の存在等に照らし、必要不可欠のものであつたとは認められず、人工呼吸器、酸素ボンベ等の備付けも、講師らの有する資格、能力、経験に照らし、特に必要であつたとは認められない。

4 指導方法及び発見救助態勢

(一) 本件事故当日の水泳教室は、前記認定のとおり、準備体操、シャワー浴び、腰掛けキック、壁キックの順序で行なわれたものであり、右練習方法には本件事故発生の原因とされるべき問題点はない。

その後、初級グループは、従来の練習の成果を確認する意味で一名ずつ本件プールを一三メートル横断するよう指示され、泳ぎに自信がないためこれをためらつていた節子ら三、四名の者も、町田章子に促されて泳ぎ出したのであるが、初級グループについては、町田章子の他に二名の指導者が指導にあたつていたことは前記のとおりであり、これらの指導者の目の届かない場所で節子らを自由に泳がせたというものではないから、指導方法に関して過失があつたものとは認められない。

(二) 節子が水中に沈んで行く瞬間を目撃した人がいなかつたことについては水泳中の節子が、いたり、大声で救助を求める等の異常行動をした形跡がなく、突然の急性心不全によつて死亡したことからすれば、やむを得なかつたものというべきである。そして、右の状況下で、前記認定にかかる水中に浮かんでいた節子の発見状況についての諸事実、就中大塚よしの及び渡辺タケの言動からすれば、節子は、急性不全を起こして水中に沈んだ後早期に発見されたのであり、かつ、発見後は町田章子らが直ちに節子を水中から引き上げ、迅速に人工呼吸、心臓マッサージを施し、救急車及び医師の手配を遅滞なく行なつているのであるから、発見救助態勢の点で、講師ら及び担当職員に過失があつたものとは認められない。

五結論

よつて、原告らの被告らに対する本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(菅野孝久 永田誠一 山内昭善)

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